第37号 悟弓巻頭言

TOP巻頭言集第37号 悟弓巻頭言


大圓覚      師範 魚 住 一 郎
                         

 尾州竹林流四巻の書の序文に弓道を稽古する場合の心構えを説いた「空手水(カラテチョウズ)の呪文」というのがあります。

 すなわち、「當ニ願ウベキ衆生八百ノ煩悩無量重罪ヲ即時ニ消滅スベシ。我ハ是れ誰ゾ未ダ生レザル以前ノ本来ノ面目ハ一円之内アバウンナリ。大圓ノ覚ヲ以テ佛師子タリ。我ガ為ニ伽藍トナサバ即ち是レ壽養信心安居スベシ常ニ其ノ中に在リテ教行スルコト座シ臥ヌ若ク平等證智ナリ」というものであります。この序文の出典は円覚経といわれております。

 この序文の意味について、尾州竹林流星野派道統十二代魚住文衛著「四巻の書講義録」によれば、

 「弓道を始めて習おうと志望する人々は数多くの迷いごとや量り知れない罪汚れを直ちに無くしなければならない。即ち正しい清らかな心にならなければならない。自分は誰の生まれ替わりであろうか、生まれる前のことは知る由もないが天地一円の内にアバウン(梵語でアアは胎蔵界、ウンは金剛界を表す。汚れのない道理と知性)を備えた人間として生を享けたものである。大圓の覚即ち天地余すところなく宇宙の全てを我が心に収められている大日如来の悟りのように師匠を仏と考えて信頼し、その弟子となって弓道の理論と実技を勉強すべきである。我が身を伽藍(仏の家)に安住すれば即ち是れ煩いごとや悩みごともなく命永く何時までも誠の心をもって安住することができるのである。この様に清らかな心をもって師匠から教えを受けて射法各般に亘る理論と実技を修行して達人になることは座ったり寝たりするように平易なことである」と注釈されております。

 名古屋大学弓道部の部旗に記され、弓道部のスローガンとされている「大圓覚」は、まさにこの尾州竹林流四巻の書の序文に由来しているもので誠に意義深いものと思っております。

 弓道の稽古は先生や先輩からまず弓矢の捌き方を教わり、ついで弓を引く姿勢、弓の引き方を習って独りで弓が引けるようになります。独りで引けるようになれば巻き藁練習を経て的前で行射することになります。

 おおよそこの段階までは誰でも先生や先輩の云われる通りに稽古をしますから順調に上達し、的中数も段々向上して興味も深まり意欲もドンドン高まっていきます。

 然しながら、そのうちに何だか中らなくなってあれこれと悩むことになります。こうした経験は誰でも心当たりがあると思いますが、よくよく考えてみますと、これは最初に先生や先輩から教わった正しい射法を忘れ、自分の経験だけに頼って弓を引くようになったからです。いわゆる我流になってきたのです。

 的に中てたい、うまく引きたい、試合に勝ちたいなど様々な欲望に駆られ、気持ちだけが先走ってしまって先生や先輩から教わったことを忘れてしまっていることに気が付かないからです。

 弓道は同じ武道である剣道、ナギナタ、柔道や相撲などのように相手と技を競い相手の空きに乗じて勝ったり、相手が強すぎて歯が立たなかったりということはなく、まったく相手がいないのですから、相手の強弱には関係なく自分の技量がすべて射に反映されるわけで他の武道にはみられない特異な存在といえましょう。

 常に「大圓覚」の教えを忘れることなく、心を清らかにして正法に従って稽古を重ねれば必ずや技量も向上し、やがて花開くことでしょう。

 的は射手の心を映す鏡であり、中りはずれは自らの射業の結果であることに思いをいたし、正射必中の信念を持ち、先生や先輩の教えをしっかり守って、迷うことなく日々努力研鑽を心掛ければおのずといい結果が得られるということではないでしょうか。

 この四巻の書の序文は始めて弓道を習う人の心構えを説いたものですが、初心の人に限らず弓道を修行する者すべてが終生忘れてはならない大切な教えと心得て、弓道の研鑽に励みたいものだと思います。


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