第28号 悟弓巻頭言

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 尾州竹林流弓道について      師範 魚 住 文 衞



 現今、日本の弓道界(社会人弓道、中学校及び高等学校、大学などの弓道)においては、全日本弓道連盟の制定した弓道教本を中心として発展しておりますが、名大弓道部においては、昭和三十三年弓道部創設以来、日弓連の弓道教本をも参考にしながら、温故知新という趣旨からして尾州竹林流の射法を採用しておりますが終局の目標としては全日弓連の弓道教本に示されております真善美の追求であり人格陶冶であることはいうまでもありません。

 名大弓道部の皆さんに対し、尾州竹林流の沿革などについて、まだ十分にお話がしてなかったと思いますので、この誌面を借りて概要を記述して、ご参考に供したいと思います。

 先ず尾州竹林流の始祖は石堂竹林坊如成と云い、真言宗の僧侶でありますが、この人は戦国時代末期(天文〜天正の頃、一五五〇年〜一五八〇年頃)に諸国を廻って弓道を修行し、その真髄を極めた人であります。

 この竹林坊如成は諸国行脚の途次、尾州の清須(現在の西春日井郡清洲町)の城主松平下野守忠吉に仕えて、藩士に弓道を教え、その次男石堂林左衛門貞次(後に石堂竹林と改名)が天正二十年(一五九二年)父から唯授一人の免許を受けて竹林坊如成の跡を受け継ぎ、引き続き清洲城主松平忠吉に仕え二百五十石を領しました。(註、竹林坊如成はその後何処へ行き、どこで亡くなったかは不詳)

 竹林貞次は松平忠吉が亡くなってからは尾張名古屋の城主徳川義直に仕えて御弓矢奉行を勤め、慶安二年十二月…一六四九年…六十七才で死去しました。

 竹林貞次の高弟に岡部藤左衛門(竹林貞次の女婿)、浅岡平兵衛重政、安部勘兵衛、長屋六左衛門忠重(三十三間堂通し矢で天下一を三回獲得)、その他著名な門弟が数名あり、長屋六左衛門の高弟に星野勘左衛門茂則(三十三間堂通し矢で天下一を二回獲得し、二回目では通し矢八〇〇〇本の大記録を樹立した)があり、以来星野家は八代まで尾張徳川藩で御弓奉行又は御弓頭を勤め尾張藩士の弓道指導に専念し、昭和の時代迄の十一代連綿として尾州竹林流(星野派)の伝統が受け継がれております。(尚、尾州竹林流の道統として、星野派の他に岡部藤左衛門の系統も現在まで伝承されておりますが、ここでは割愛いたします)

 この尾州竹林流は流祖竹林坊如成の頃は日置流と称していたようでありますが、その後紀州に吉見順正を始祖とする紀州竹林派ができて、尾州藩では竹林貞次以降いつの間にか尾州竹林流といわれるようになったようです。

 この尾州竹林流には、四巻の書と灌頂の巻その他の弓書が伝承されており、四巻の書(初勘の巻、歌知射の巻、中央の巻、父母の巻)を外伝とし、灌頂の巻を内伝とし灌頂の巻は唯授一人秘奥の書とされております。これらの伝書の内容はこの紙面では具体的な説明ができませんが、四巻の書は弓道の基本である七道(八節)から始まり修行の心得から人の道に至るまで、射法射技の詳細だけでなく人間修養に益する教義が佛教用語などを引用して克明に記述されております。

 名大弓道部の正面の掲額「当願衆生百八煩悩…」という辞は四巻の書のうち第一巻初勘の巻の冒頭に記されている序文で、弓道に志す者の心構えを説いたものであります。これを『空手水(からちょうず)の呪文』と云い円覚経からの出典であります。

 この序文の意味は、弓道を志す諸人は数多いなやみ心や量りきれない罪けがれを直ちに拂拭しなければならない。自分は誰の生まれ替りであるか生まれる以前のことは知る由もないが、天地一円のうちに陰陽をうけて生まれた人間である。[](胎蔵界…理の絶対界、理は万物の大木であるすべての法を含み、もつてそだてやしなうことが、母体が胎児を含みそだてるからの謂である)、[ばうん](金剛界…いっさいの誘惑を断ち切る知性)の両方を備え生を享けて人間となったものである。天地一円のうちに人として生まれたことは幸せであり大円の覚り(天地余すところなく弓に丸くはまる心)を以て師をと考えて信頼し、その弟子となって道理(真理)を探求すべく努力すべきである。(とは弓道の理論と実技に達した人のことである。)我が身を伽藍(堂塔、の家)に安住すれば煩いごとや悩みごともなく命永くいつまでも誠の心をもって師匠から教えをうけて弓道各般にわたる理論と実技を修行すれば達人になることは座臥するごとく安楽である。

 以上尾州竹林流の概要を述べましたが、これは小生の恩師故富田常正先生(竹林流正統星野派道統第十一代を継承せられ、昭和三十五年一月二日逝去、範士九段)の著書、尾州竹林流四巻の書註解を参考として記述致しました。

 最後になりましたが名大弓道部の皆さん、OBの皆さんの一層のご活躍をお祈りします。

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