第20号 悟弓巻頭言

TOP巻頭言集第20号 悟弓巻頭言



 古稀雑感      師範 魚 住 文 衞
                         

 人生七十古来稀なりという俗諺があるが、現代では平均寿命が七十を越えるようになったので七十才は稀ではないが、私も今年の三月に満七十才になり、年をとると若かりし頃が懐かしくなる。六十歳の頃まではどうにか人前で弓を引くことができたが、年毎に加わる体力の衰えと原因不明の弓手の震えで、人前で弓を引くのが恥ずかしく寧ろ恐ろしいようになった。このようにみじめな状態になると若い頃の自分の射がいっそう懐かしくなる。

 私事を書いて恐縮する次第であるが若い頃の思い出と、それに関する所感を述べてみたいと思う。

 県庁の勤務を了えるのが午後五時ごろ、土曜日と夏の四十日間は正午までの勤めであったが、勤務を了えてから名古屋の栄町交差点から約二〇〇メートル南に大津正吉先生(武徳会範士で星野勘左衛門家の第十一代後見)の道場があり、そこへ行って毎日約五時間の練習という日課が十数年続いた。その頃即ち二十から三二、三才当時の思い出であるが、弓を引き収めて会に入ると十五間(二八メートル)先の星的が自分の手許へ吸いつくように近寄って的が大きく見えて、離せば期せずして中り、黒星に五割の的中も稀ではなかった。

 弓を引くと的がこちらへ近寄ってくるような感じがすることは矢数を多くかけた人ならば誰でも経験することであるが、このことについて尾州竹林流の教訓などが連想される。

 その一は、星野家に伝わる尾州竹林四巻の書細註のうちに一分三界という教えがある。一分(三ミリ)程の小さい的を3千世界(宇宙)のように大きく見開き、また3千世界のような大きな的でもその中心の錐揉みの一点に目付け(ねらうこと)をせよということである。

 その二は、同じく四巻の書細註のうちに次のようなことが記されている。

 [支那上古の伝説]

 飛衛(支那、漢時代の弓の名人)は甘蠅(同じく弓の名人)に射を学ぶ。飛衛の弟子に紀昌という者が居た。これまた射を善くした、或る日紀昌が師匠の飛衛に射の極意を授けて下さいと乞うた。仍ち飛衛曰く「先ず弓を射るときに瞬をしないことを練習せよ」と。紀昌は家に帰って妻の機を織る下へ入って妻の足が目の前へきても瞬をしないように練習をし、二年間の修行によって、どんな場合でも瞬をしない域に達したので、その事を飛衛曰く「まだまだそれだけではダメである。小さい物が大きく見えるように修練せよ」と。仍て紀昌は家に帰り自分の髪を一本抜きとって、その先に蝨(しらみ)を結びつけて、これ南面して窓に垂れ下げ、それが大きく見えるように毎日練習をして、数ヶ月後にやゝ大きく見えるようになり、三年後には車輪のように大きく見えるようになり燕角の弓(角で作った子弓のことか?)に蓬の矢を番えて蝨の中心を射貫いた云々と記されている。この伝説は針小棒大の表現のようであるが、小さい物を大きく見開くという真意はわかるような気がする。

 その三は、全日本弓道連盟の弓道教本のうちに目使いのことが示されている。「目使いは大切である……心のまとまりは目によって示される。……目使いを正しく行うべきである、かくして心気も整い全体が目に映るといわれている」と。更に「立った姿勢の場合の目使いは鼻頭を通して約四メートル先に、坐ったときは約二メートル先に注ぐ」と示されている。この四メートル先、二メートル先に目を注ぐというのは、そこだけを凝視するのではなく、その場全体を掌握することである。

 人間の心理は或る一点に心を集中すると他を忘れ、一点を凝視すると他は漠然とするのであるが修練を積むと一点を大きく見開くことができ、また広い範囲のものが一点となって見えるようになるのである。

 弓を射る場合に的が手許へ近寄って大きく見えるというのは、単に的を凝視するのではなく射の運行と息合と的と心が一体になることによって可能となるのである。初心のうちは的に向かえば的に気をとられて射の運行や射形のことを忘れてしまうが、修練によって前述のように複数の条件が合一するようになる。即ちこれが精神統一の極意であり弓射の極意である。この域に達するには基本と骨法を忠実に守りつゝ矢数(練習)をかけることが肝要であると思う。

 射よや射よ、射るより外の師はあらじ、

  習わぬことを、我とこそ知れ。

                     (射義指南歌)


TOP巻頭言集第20号 悟弓巻頭言