第16号 悟弓巻頭言

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 思い出    師範 魚 住 文 衞
                         

 若い人は将来の夢を考えるが小生のように老年期に入ると昔のことが懐かしく思い出すことが多い。

 名大に弓道部ができてから、もう二十年にもなる。昭和三三年の九月頃、初代の弓道部長の須賀太郎先生が小生のところへ来られて「名大に弓道部ができたので師範を引き受けてもらいたい」との要望があった。当時小生は愛知県庁に勤めていたので平日は時間的な余裕がなく、また学生に対する弓道指導の経験もなかったので、お引き受けすることが如何かとためらったが強いてのご要望であったので次の三ツのことをご了承願えればということでお引き受けすることになったのである。即ち(1)指導の日は小生の都合の良いとき (2)小生自身の勉強のための学生指導であること (3)謝礼などは不要のことが三ツがそれである。その当時小生も四五〜六歳で元気だったので暇をみつけては旧八高校庭(旧名大教養部)に弓道部員の勤労奉仕で作った野天道場へ出入りしたものである。寒風にさらされて二〇名程の部員と共に新年射会をやったことがツイ先頃のように思われて懐かしい。当時部員であった大先輩の染谷太郎君や元気者の岸田正昭君等の諸兄は、もう四〇才に近いよいおやぢさんになり、夫々会社等の重要な地位で活躍されていると思うと小生自身もすっかりおじいちゃんになってしまったことに気がつくのである。

 旧八高の野天道場が現名大構内の東方一角に再び部員の汗と力によって移され、引き続き炎天の元で或は寒風を吹っ飛ばして練習に精魂を傾けた。しかし残念なことは雨の日は練習ができないことであった。このような悪い条件の弓道場ではあったが部員の熱心さは驚く程で東海学生弓道連盟の選手権大会、リーグ戦、百射会等の団体戦や個人戦で好成績を収めていた。殊に酒井邦雄君(第四回・・・昭和三九年卒)や橋本功君(第六回・・・昭和四一年卒)が現役時代(昭和三八年〜四十年頃)に全日本弓道選手権大会で優勝又は上位入賞したことは特記に価する快挙であった。

 その後部員の人数も多くなり、女子部もでき、当時の弓道部長市川眞人先生の格別なお骨折りと部員や先輩OBの協力が大学当局の深いご理解をえるに至り、昭和四十年度に現在の場所へ初めて完備した弓道場が新設されて、名大弓道部は名実ともにいよいよ充実し、東海学生の百射会で九三中という好記録を出した河西稔君(第十回・・・昭和四五年卒)という名射手を生むに至ったのである。そして四六年度には更に巻藁道場が増設されて現在に至っている。

 名大弓道部の創設から今日までの間、弓道部長三先生の愛情あるご教導の下、現役部員の努力とOBの援助で今日の隆盛を見るに至り、過去二十年間の団体戦個人戦共に夫々優秀な成績を挙げると共に、大学弓道部の本旨である体育と倫理性の向上に精進してこられたことは喜びに堪えないが、その反面小生を顧みるとき師範をお引き受けしてから約十年間は名大弓道部以外へは出かけることが少なかったが後半の十年間は東海学生弓道連盟会長その他弓道関係のいろいろな役目を引き受けざるを得ない羽目になってしまい、あれやこれやと日程がつまって、名大弓道部に対しご無沙汰勝ちになったことを誠に申訳なく思っている。

 昭和五三年夏には全日本学生弓道選手権大会が名古屋で開催される予定であるので、それを目ざして部員諸君のご精進をお願いする次第である。

 註、記述のうち記憶の一部に誤りがあるかも知れないがご了承ください。

 


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