第11号 悟弓巻頭言

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  随想       師範 魚 住 文 衞
                         

 春とはいえ、まだ寒い今日この頃、霜で黄色に枯れた我が家の庭の芝生のあちらこちらに雑草の新芽が点々と数を増し緑の面を拡げてくる。寸暇でもあれば芝生の草取りを日課のようにしている私だが雑草との競争にはなかなか勝つことができない。肥料をやったり手入れをする農作物や観賞用植物などの弱さに比べて雑草のたくましさには頭が下がる。

 私の住んでいる田舎では、どの農家も家の庭先に岩石を据え、人工的に曲がりくねらせた松の木などを植え込んでちょっとした庭園を造っている。

 丁度七年前、近所に住んでいる庭師が来て「魚住さん、あんたの家も雑草が多いようだが、この際お庭を造りませんか、石を置いて木を植えれば雑草の生える場面が少なくなり、眺めもよく、草取りの手間も省けるので一挙両得ですよ」と勧めてくれた。当時雑草に困っていた私は少々迷ったが、それを断った。狭くるしい庭を造るよりも芝を植えればさ程広くもない庭を広く感じ雑草も生えないであろうと単純に考え、また一面、当時勤務地の関係で東京に別居していた長男夫婦が将来帰ってきて私共と同居するようになれば、芝生が孫たちの遊び場にも役立つという実益的な理由と、それ程広くもない我が家の庭先に岩石を据えたり木を植えたりして箱庭のような窮屈な思いをしたくないという基本的な気持ちから芝を植えることにしたのである。

 それから七年、芝が一面に張りつめた今日、芝生の中の草取り作業はなかなか大変な仕事であり、芝を植えた当初の目的の一ツは見事に外れたが、その代わりに強い芝生に勝って生きぬこうとする雑草のたくましさを肌身に感じ、近来老境に入ってやゝ意気沈滞の私の心を励ましてくれるという予想外の収穫があった。

 昨年の夏、長男が東京から名古屋へ転任となって、長男家族と同居するようになり、七才を筆頭に三人の孫と一緒に暮しているが、孫たちは芝生にスベリ台やブランコを据えつけて、ハダシで飛んだり跳ねたり嬉々として遊ぶのを見て、あゝよかったと思う。また箱庭のような狭い人工の庭よりも、田舎の自然の環境は偉大な庭園であり私の心を寛げてくれるのに十分である。

 弓道に真善美ということがよく云われるが、偽りのないのは善であり美である。私は技巧的な庭園の美よりも大自然の美が好きである。

 曽て読んだことのある「優美と崇高の観察について」という書物の中の哲学者のカントの言葉を思い出す。カントは美の感覚を優美崇高に分けて次のように示していたように記憶している。

   (優 美)    (崇 高)

    形        力

    装飾       簡素

    寡少       偉大

    静        動

    有限       無限

 右のような観点から我が家の置かれている環境は、小手先細工の箱庭式な庭園は造っていないが、一望数十粁のうちに田畑あり、森あり、川あり、新幹線も遥か彼方を走り騒音もなく、翻って眼を西北に向ければ鈴鹿の連峰や伊吹山を望む崇高な大自然の庭園の美しさがある。こう云うと七年前に庭師に対し造園を勧められたとき、それを断った弁解的な負けおしみと云われるかもしれないが決してそうではない。

 弓道においても小手先の技巧でよく中てる甘い射を見るが、それは美の範疇には入らない。射形が整っていても内容の乏しい射は美しく見えても観る者を感動させることはできないと思う。いわゆる優美とでも云うところか? これに比べ幾らか枝葉的な技術のまずさはあっても基本的な射形が整っており、技巧を超越して(技法を無視するというのではなく、日常の正しい練習によって無意識のうちに骨法にかなっていることをいう)心気の充実した射は美のうちでも崇高というべきものであろう。我々弓道を志す者は、これを目標に精進したいものである。


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