第10号 悟弓巻頭言

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  努力       師範 魚 住 文 衞
                         

 二十三歳の青年A君は、元来外柔内剛型の負けずぎらいで、こうと思ったらトコトンまでやり遂げねば気がすまないという性格の好男子である。

 彼が或る一流会社に会計係の平社員として勤務していた頃のことであるが、当時彼は彼の上役である係長や総務課長が会社のことは勿論社会の一般的なことについても博学であることを知っていた。A青年は、自分は中学卒(旧制)の学歴しかなく、将来係長や総務課長になれるだろうか?会計係という比較的巾の狭い仕事について深く突込んでいくことは自分の性格にピッタリしているので一生涯この仕事をやり遂げたいという気持ちがあり、その反面会計専門になりきってしまうと役職に昇進することはできないであろうし、将来の昇進を望めば巾広く勉強しなければならず、あれこれと両方の欲望が錯綜して煩悶し続けていた。たまたま彼はKという常務取締役の出張旅行に臨時の秘書として随行することになった。

 K氏は大学卒の秀才で、四十才の若さで常務に抜擢された人で然も部下思いの人情家で社員の尊敬を一身に集めていた人である。

  A青年は常務の出張旅行に随行できる機会を得たことを大変喜ぶとともに、この機会に自分の悩みごとを打ち明けて相談してみようと思った。

 旅行先の宿舎でK常務とA青年は隣合わせの個室で寝たがA青年は夜の明けるのを待って隣室のK常務を訪れた。その時K常務は既に起床して机に向い正座して読書にふけっておられた。A青年は「お早うございます」と挨拶したが内心ビックリした。こんなに早くから勉強しておられるとは!偉い人は自分たちと違うんだなあ!と感心した。K常務はA青年の方へ振り向いて「あゝお早う、A君もう起きたのか、ゆっくり寝ていればいいのに・・・」とやさしく云われ、Aは恐縮して悩みごとを相談するのをちょっと躊躇していたが、思いきって「常務さん、お願いがあるんですが・・・」と悩みごとを打ち明けた「私は現在総務課で会計の仕事を担当しているんですが、私の性格としては巾の広い仕事を浅くやるよりも”二兎を追うものは一兎を得ず”という諺のように会計という狭い分野の仕事を深く掘り下げたいのですが、それでは総務課長さんのような巾の広い人間になれず、また私のような頭の悪いものが巾広く勉強しようとすれば深みができないので、どうしたらよいかわからず悩んでいますが・・・・・・」と相談をもちかけた。K常務は即座に「君い、そんならここに穴を掘ってみなさい」と云って人差指で畳をトントンとつゝ突いた。Aは常務さんの言葉がどういう意味なのかわからず面喰らってボンヤリしていたが、K常務は更に言葉を継いで「君い、地面に三十センチの直径でどのくらいの深さに穴が掘れると思いますか?おそらく一メートルぐらいしか掘れないでしょう・・・・・・二メートルも三メートルも深く掘り下げようとすればそれ相応に直径を広くしなければならないでしょう」と云って旅館の便箋に次のような図を画いてAに示し、「君は第一図のように自分の能力を限定して物事を考えているようだが、第二図のように深く掘り下げるには巾も広くせねばならず、斜線の部分は君が考えている以上の努力が必要であるねえ」と付け加えられた。

 【第一図】                    
  A君の考え方                  
   縦に掘るか横に掘るか二者択一である。     
      ──┬─┬── 地面  ─┬────┬─地面
         │ │          └────┘
         │ │
         └─┘

 【第二図】
  正しい考え方
        ─┬─┬─     ─┬─┬┬─┬─
          └─┘       │ └┘ │
        深さ一メートル     │ 余分の │
        径三十センチ      │ 努力 │
                      └────┘

 常務は更に言葉を続けて「君は総務課で会計のことはよく勉強して有能な社員だという評判だが、会計の仕事は会計の規則と事務処理の方法をよく研究して、与えられた仕事を早く正しくやるだけでは会計のベテランとは云えないねえ、真に会計のベテランというのは会計の実務は云うまでもなく、会社の業務全体が会計に関連しているので、これらのこともよく勉強し、更に広く考えれば日本の産業経済や消費の動向も当社の会計に全く無関係ではあり得ないので、これらのことも或程度は知っておらねばならないでしょう。要するに深く掘り下げようとすればそれ相応に巾の広い勉強が必要であるが、肝心なことはその努力ですよ、君は自分の能力を限定して物事を考えているようだが人間の能力というものは、その人の努力によっていくらでも伸びるものだと僕は思っているがねえ。」と懇々と説諭された。

 A青年は今までの心の曇りがサラリと晴れて勇気百倍、その後は持って生まれた負けずぎらいの気性に加え「努力」を座右の銘として精進して成功したということである。

 この話は私が若い頃、私の先生から聞いて感銘し、今でもはっきりと頭に残っている。

 名大弓道部も創設以来十有余年の歴史をもち、東海学生弓道会では有数の名門校であるが、その過去においては創設以来の先輩諸兄が不十分な弓道施設のもとで並々ならぬ苦闘と努力によって各種の大会で良好な成績を挙げてきたのであるが、去る昭和三十九年十月には待望の弓道場が市川先生始め大学当局のご理解によって立派に新設され、更に本年は理想的な道場に拡充していたゝ゛いたので、この機会に先輩の苦労と努力を偲ぶ意味からも、悟弓四号の巻頭言に掲げられている市川先生の言葉を熟読して発奮してもらいたいものである。

 どの時代でも部員のうちには器用な人と不器用な人がいるが、射の上達は器用不器用はそれほど重要なものでなく、その人の努力に俟つところが多いのである。本年七月末には名古屋で全日本学生弓道選手権大会が開かれることでもあり、この際市川先生始め大学当局のご理解による道場完備に応えるためにも大いに頑張ってもらいたいと念願する次第である。



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